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西日本の銘石産地

本御影石

本御影石(ほんみかげいし):兵庫県・神戸市産

「御影石」ってどんな石?
お墓に使用する石のことを、よく「御影石」って呼びますが、どんな石なのでしょう?

厳密に言うと、「御影石」という名前の石はありません。

元来、御影石とは、兵庫県神戸市の六甲山の麓、
御影地方で採掘される石の名称で、学名上は「花崗岩」と呼ばれ、
マグマが地中深くで、ゆっくり固まって出来た岩石です。

この「御影(みかげ)」という地名は、
その昔、神功皇后が現在の阪神御影駅付近にあった、
"澤之井"という泉の水面に、自身の御姿を映しだしたことから、
御影の名が付けられたとされています。

この地域の浜側には、江戸時代から、「灘五郷」で知られたつくり酒屋が軒を重ね、
山側には、古くから御影石の石切り場が点在しており、
社寺仏閣向けの石材加工を営む多くの石工がいました。

桜色の優しい風合いが人気を呼び、
切り出された御影地方の石は、大阪湾に面した浜から石船に積まれ、
古くから全国各地に送られてきたことで、
その名が全国に知られることになりました。

その後、全国の石材産地で採掘される花崗岩をはじめ、
安山岩、閃緑岩、斑レイ岩に至るまでが、「○○御影」「△△御影」と、
御影石の名を付けた名称にて流通しています。


今では、お墓に使われる石を総じて「御影石」と呼ばれているのです。


また、元来の「御影石」は、『本御影石』として区別しています。

「本御影石」とはどんな石なのか?
本御影石の表面、皮肌は風化して柿色をしていますが、
中は桜色をした独特の風合いを有し、ち密で硬い石質と相まって、
明治、大正、昭和の初期にかけて最上級の評価を受け、数多くのお墓に使用されました。


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この本御影石は、日本屈指の高級住宅地として知られる芦屋市六麓荘でも、
土石流の堆積層から石切り場の跡が見つかっていることから、
芦屋辺りから神戸市東部の御影町までの六甲山麓南斜面が本御影石の産出地でした。


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その中でも、住吉川上流に位置する荒神山や五助山が採石場としては有名で、
荒神山産の御影石は最上級品とされました。


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【本御影石の物性データ】

■比重:2.65

■吸水率:0.43%

■1,588kg/㎠


現在では、本御影石が採れる神戸市の六甲山が、
瀬戸内海国立公園の一部に含まれるため採掘できず、
まとまった量の本御影石を入手することが難しくなっています。


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都市計画による道路工事や宅地造成、岩盤の自然崩落、
御屋敷がマンション化された時に搬出される場合など、
ごくごく限られたチャンスしかありません。

しかし、本御影石の墓石材としての品質自体は、
ずばぬけて優れているものではないことが近年になって分かってきたのです。

実のところ、この本御影石は、さほど硬い石ではなく、
水を含みやすい性質の石なのです。

ちなみに、西日本で有名な「庵治石」や「大島石」と比べると、
硬さは3分の2程度で、吸水率は逆に2倍以上という数値です。

なので、その当時に建てられた本御影石のお墓を見るとかなり風化が進み、
お墓に彫り入れした文字も見えにくくなっているものもあります。

逆に庵治石や大島石で建てられているお墓の彫刻文字は、
かなりの年月が経った今でも、くっきりとした文字が残っています。

本御影石が使用された当時は、工業試験場で石材を化学分析などすることはありません。

それゆえ、見た目の美しさで一世を風靡した石と言えるでしょう。


「本御影石」の値段は?
では、この本御影でお墓をつくれば値段は高いのでしょうか?


結論から申し上げますと、とんでもなく高いです。


その理由はクジラと同じく採れないからです。


これまでの在庫や、特別な理由での採掘など、
偶然産出されるだけなので極めて高い金額になるのです。

その額は、世界で最も高級といわれる「庵治石」よりも高い場合もあり、
"幻の石"とも言われるくらい希少価値の高い墓石材となっています。


「本御影石」の石切り場を散策
JR神戸線「住吉」駅の東側を流れる住吉川西岸沿いに北へ30分ほど歩くと、
昭和9年(1934年)、白鶴酒造第7代当主、嘉納治兵衛邸に開館した白鶴美術館があります。


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この美術館の石垣には、本御影石がふんだんに使われており、
中には、時価数千万円もするような巨岩もあるとか? 


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石切道は切りだした石を牛車で運ぶためにつくられた道で、
道幅もそこそこあり、舗装もされています。


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石切道の周辺には、かつての採石場と思われるところがいくつもあり、
大小様々の大きさの石や、加工を手掛けたと思われる、
切断した状態の石が現在でも残っています。 
石切道周辺には、「石切道」と記された石標や案内表示がいたるところにあり、
かつてここが「本御影石」の採石運搬路であったことをうかがわせます。 


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一番奥の高い位置にある、通称「マッチ箱」といい、
石切り場へ通じる道は道幅も狭く舗装もされていません。


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おそらく、この石切り場からは、道幅や斜面等の条件から、
小さな石しか切出すことが出来なかったのではと思われます。 


六甲山の地質と生い立ち
六甲山地は地下深くで形成された花崗岩からできています。

ピンク色のカリ長石の日立つ「六甲花崗岩」と、
角閃(せん)石の多い布引花コウ閃緑岩の二種類があります。

この花崗岩が出来たのは七千万年から一億年前(中生代・白亜紀)のことです。

しかし六甲山そのものがこんなに古いわけではありません。


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少なくとも百万年以前は六甲山地付近は、
そんなに高くないなだらかな平原でした。

かつての平原のなごりが山頂付近(八百メートル)や、
摩耶山・修法が原などに残っています。

百万年ほど前から近畿地方全体が、
東西方向から大きな圧力で締めつけられ、
六甲山地は徐々に上昇を始めました。

さらに五十万年前からは急激に高くなってきました。

対照的に沈んでいったのが大阪湾や大阪平野なのです。

そこには山地からけずりとられた土砂が運ばれ、
地層となってたまっていきました。

この隆起と沈降に伴って岩石は壊されます。

その変動の傷跡ともいうべき所が断層です。

神戸の市街地と六甲山地とを境する諏訪山断層をはじめ山地の各所に、
岩石がボロボロに壊された断層を見ることができます。

百万年間に一千メートル近くの高さにもなった新しい山、
六甲山はまだ成長途上の山だと考えられています。


※市民のグラフ「こうべ」166号より引用

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